トリの日記

性別がよくわからないまま生きてきた人。LGBTでも生きやすい社会を。

うなぎが嫌いだった子どもと、うなぎが好きになった大人

昨日、テイクアウトでうなぎを食べた。
 

うな重(特上)、4000円也。
友人のおすすめのお店のうな重だったのだが、いかにも炭火で焼きました、という感じの香ばしさが感じられ、タレも、出汁でも入っているのか?というくらいコクと風味があってすごく美味しかった。
 
うなぎほど、子供時代と大人になってからの評価が変わる食べ物ってないと思う。
 
わたし自身もそうだが、結構な人が「小さい頃、うなぎが嫌いだったけど今はとても好き」と言う。主な理由は、あの独特の泥臭さとか、ちくちくする小骨などが子供の嗜好に合わないようである。わたしも御多分に洩れず小骨が嫌で、夕食にうなぎが出ると、うなぎを引っぺがし、タレをかけたご飯だけを食べていた。母はうなぎが大好物なので、わたしの食べ残しはきっと母が困ったふりして(胃の中に)処理してくれていたのだろう。
 
以前、保育教諭の先生をしている友人から、食の好き嫌いについて、以下のように聞いたことがある。
嫌いな食べ物というのは、自分が小さい頃に「食べたくない!」というタイミングで食べさせられたものなのだそうだ。それを脳が苦々しい記憶として覚えていて、その食べ物を嫌いなものとして認識してしまう。
好き嫌いの生起のメカニズムには諸説あるのだろうが、「なんかダメ」な食べ物に対する嫌悪感が大人になっても残り続けるのはこのためではないか。まるでトラウマのように、脳が拒否し続けるのである。一方で、コーヒーやゴーヤーのように「苦いから嫌い」とか、貝類のように「ビジュアルがダメ」みたいに嫌いな要因が明確な場合、成長するにつれて感覚が変化することで要因自体が大したことなく感じられるようになり意外とあっさり克服しちゃったりする。
 
うなぎが嫌いな子供だった人たちは、いつしか大人になり、小骨を噛み砕き飲み込めるだけの喉および口内強度を獲得し、かくしてうなぎを美味しいと思うようになるのである。
加えて、世に数ある料理の中でもうなぎが比較的高級でありハレの日の食べ物であるということもまた、うなぎに独特の神聖さを纏わせる。
 
学生時代、先生に連れられて神保町のうなぎ屋で食べたうな重が、わたしにとっての「大人のうなぎ」だったと思う。重厚なお重に入れられたご飯と、茶色のタレを纏った艶やかなうなぎのビジュアルは、いかにも特別な食べ物、という感じがして、それを食べるようになった自分までも、少し大人になったような気にさせてくれたのを覚えている。
同じく子供時代にうなぎが嫌いだったという友人も、大人になってうなぎを自分のお金で食べたときの達成感は格別で、それによりうなぎへの愛が深まったそうだ。
 
うなぎは美味しいだけでなく、味覚の確立と社会的な自立の両方を認識させてくれるからこそ、特別な食べ物なのかもしれない。
ビール、うなぎ、カウンターの寿司。
大人の階段を登るイニシエーションご飯の数々。
できれば大学生くらいで経験しておきたいものである。