うなぎが嫌いだった子どもと、うなぎが好きになった大人
5年ぶりにコストコに行って思ったこと
「甘じょっぱい」の構成要素
私は、チーズを食べに行く友人グループを持つくらいにチーズが好きだ。
そのグループでは、チーズのお店を発見次第チェックし、情報共有がされる。特にチーズリゾットまたはブッラータがメニューのラインナップにあるお店があればまず間違いなく食事会を催行し、たらふくチーズをたべる。
先日もチーズを食べに行き、クアトロフォルマッジ(4種のチーズのピザの蜂蜜がけ)を食べた。
青カビのクセのある風味が際立つチーズの塩気にはちみつの甘さが加わると、脳天にガツンとくる衝撃的な美味さになる。カロリー爆弾のような食べ物だとは分かっていながらも、ピザの数切れなど吸い込むように食べてしまう。
どうしてこうも、甘じょっぱい食べ物というのは後を引いてしまうのか。よく考えると、甘いとしょっぱいの同居を美味いと思うのって不思議じゃない?
元々、日本の家庭料理は醤油やみりん、砂糖が使用されることが多いので、我々の舌は甘辛い味付けに慣れているところがある。人から聞いた話だが、海外では日本の料理の味付けと言えば甘辛の「テリヤキ」味が有名だという。確かに、以前にアメリカに行った時、日本料理を掲げるお店の看板や外壁には、「Sushi」に次ぐ確率で「Teriyaki」と書いてあったように思う。
では、日本ではない国、例えばヨーロッパ圏で甘じょっぱい料理がないのかと言えばそんなことはない。上記のようにチーズに蜂蜜をかけるとか、ベーコンとメープルシロップなんかも、パンケーキやマフィンとセットで食される。以前、フランスの家庭料理を食べさせてくれるお店で、フォアグラのパテを甘いパンにつけて食べるというのをやったことがあるが、それはそれは夢のように美味しかった(おいし過ぎてその後ほんとうに夢に出てきた)。だから、海外の人にとっても甘じょっぱさは美味さであり、日本のテリヤキ味も取り立てて新鮮というほどのものでもないのかな、とも思う。
ただ、ヨーロッパ圏の甘じょっぱい食べ物に関しては、日本のように甘味と塩気の2要素だけではなく、甘味、塩気、脂(動物性の脂が多いと思うのでこの漢字にした)のうまさの三つ巴の「甘じょっぱい」で構成されている事が多いようだ。
もちろん食文化全体において油の使用量や比率が異なるのは当然だが、上記のクアトロフォルマッジのように、脳天にガツンとくるうまさは明らかに脂の役割がなければ成り立たないし、元々の日本の食文化にはそう多くないものだったのではないか。そばやうどんのつゆ、煮物も甘じょっぱいけど油は入らない事が多い。すき焼きも文明開花の味だし、昔からある料理で動物性の脂と甘じょっぱい組み合わせってうなぎくらい?なお、うなぎも江戸時代後期からみりんによってタレに甘味が加わったようなので、それまではしょっぱい蒲焼きだったと思われる(
https://www.numazu-cci.or.jp/kobetu/ha/fukuya/monoga.htm)。
こうやって考えてみると、日本食の甘じょっぱい(甘辛い)、はほぼ醤油と砂糖(みりん)で完成している節がある。塩主体の味付けに強めの甘さを加える例って少ないかもしれない(はちみつ梅と塩麹くらいしか思い浮かばない)。
すると、世の「甘じょっぱい」は以下で成り立っていると言えるのかも。
「醤油+砂糖」または「塩+砂糖+脂」。
最近は塩バニラ、塩キャラメル、のように甘味を少しの塩気で引き立てる場合もあるけれど、あくまであれは甘味主体だしね。
それにしても塩分と糖分と脂、全て揃うと中毒的なうまさだけど健康的には良くなさそう。。
「甘じょっぱい」は、適度に楽しみましょう。
読んだ本「アダルトチルドレンから自由へ」がめちゃ面白かったけどひねくれて生きてきてしまった私には大変刺さる本でした
AmazonのKindle Unlimitedに加入している。
加入しているというか、格安のお試し期間が過ぎてそのまま課金されているという感じ。「お試し」の魅力的な罠の仕組みを理解しながら、日常の煩瑣なあれこれにまぎれて無料期間が終了し、いつのまにかぬるりと優良期間に突入している。
でも、kindleは電子化されている本ががたくさんあるし、Unlimitedに入っている本の種類も多い。ここでしか読めないオリジナルの本も結構あるからひと月980円ならまあいいか、などと考えて確信犯的に放置してある。食べ物や衣料品のサブスクはぜいたく品だと思って利用したことないのに、映画や本のサブスク利用はなぜか「教養」「自己投資」などという名分で自分の中でOKがでてしまう。同じような人も多いんじゃないだろうか。
今日も元を取るため、以下の本を読んだ。
沢瀬直太朗さんの「アダルトチルドレンから自由へ」という本。
Amazon.co.jp: アダルトチルドレンから自由へ eBook : 沢瀬直太朗: 本
先日、人から「私、アダルトチルドレンかもしれないんですよね」というような話をきいたのがきっかけだ。アダルトチルドレンってなんだっけ、なんとなく親が問題で自分がない人、みたいなイメージだけど合ってるんだっけ。お昼ごはんを食べた後ネットサーフィンをしながらふと思い出し、本を読んでみようと思ってダウンロードした。
著者の沢瀬さんは心理カウンセラーで、自身もアダルトチルドレンとして悩んだ経験の持ち主である。だからだろう、説明も懇切丁寧でわかりやすく、まるで目の前の人に話しかけるような文体で書かれていて親しみやすい。実例や具体的な改善行動などにも言及していて、よくある「原因解明は徹底的にやるのに今後どうすればいいかになったとたんに抽象的になる」みたいな心理学あるあるの本ではない。自分の経験を直伝するために書いた、という意気込みは、始まって最初のページからも読み取れる。
太字で2行だけ。
「突然ですが、どうしてもあなたに伝えたいことがあります。
あなたには物凄い価値があります。」
アダルトチルドレンに苦しむ人を救おうとする情熱に、冒頭から引き込まれる。
章の構成としては、
はじめに
第一章 アダルトチルドレンを克服する方法
第二章 幸せになる方法【1】
第三章 幸せになる方法【2】
第四章 幸せになる方法【3】
第五章 アダルトチルドレンから自由へーー
あとがき
となっている。
第一章ではアダルトチルドレンや幸せとは何か、といった定義の部分の説明とともに、それでもそのまま幸せになれるよ、大丈夫だよ、というメッセージが語られる。
第二章~第三章では、場面によって出てくる課題に対してどのようにアプローチし、行動し、改善していくかを説明。
第五章では実際に行動することの大切さや、ひねくれてしまった考え方、価値観、感情の処理方法などについて述べている。
私自身も、親が原因かどうかは微妙だが、セクシャルマイノリティとしてひねくれて生きてきてしまったがためにアダルトチルドレン的な性質はかなりあると思う。
マイノリティとして異質性を自認せざるを得ない中で、マイノリティであること=劣等、弱い立場、といった間違った認識をもって生きてきてしまった私。後天的に得られる「価値あるもの」で武装すれば強く幸せに生きられるのではないかと思って、頑張らなくてもいいことまで頑張ってきてしまった。ちなみにここでいう「価値あるもの」とは、学歴とかお金とかいった所謂社会的ステータスに直結するもろもろである。
でも、気付いちゃったのだ。
これって私の物差しではかった結果、価値があると思ったものじゃないよな、と。
社会一般の物差しで「価値あるもの」としてはかられたものだよな、と。
これに気づいてしまった時の感覚と言ったら。絶望感と言うのか徒労感と言うのか、自分の足許がぐらついて地面が斜めに傾き、砂や石ころとともに暗い空間の底にザラザラ~っと滑り落された感じ。自分の物差しだと思って握っていたものが別人のものだったなんて。
いつも感じていた、何かに追われているような焦燥感はこのせいだったのだ。社会通念上の「価値あるもの」を獲得しないと自分の存在価値を失うという不安に駆り立てられていたのだ。
だから『アダルトチルドレンから自由へ』を読んだとき、
「幸せな人は受験勉強をしている時も、就職活動中も、夢を追っているときも、もうすでに幸せなのです。」
と書いてあるのを見て思わず声にだして「ウワッ」と言ってしまった。ひとりなのに。
その一文にしっかりラインマーカーをし、読み進めた。その後もラインマーカーを引いた個所は40近くにもなった。
そのほか、個人的「ウワッ」な部分は以下である。
「なぜそんなに優れていたいのかと言いますと、優れていないと愛されないと思っているのです。そして、愛されたいから、優れた人になろうと色んな努力をします。(中略)どれだけ凄くなってもまだ足りません。いつも今の自分では未熟なのです。」
→これは私も学生時代の時に気づいたなあ。それ以降、周りの人に対して自分の弱みを隠さないようになった。
「劣等感とは、実は違うのではないかと期待している状態のことをいうのです。」
→テレフォン人生相談の加藤諦三の決めゼリフ感があっていい。つまり、自分で人より劣っているところがあると頭では理解しながら、受け入れられてはいないということ。グッときます。
「威張らないし、自慢しないし、誉めてほしがらない。ただ得意なことで人を助けてあげればいいのです。最高に魅力のある人になりますから。」
→ハイ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「ずっと続く恐怖って、おかしいです。ずっと漠然と今のままではダメだって思うのは、以上です。そんな恐怖、間違いです。」
→えっ、そうなの????って感じ。ほかの人はこの、何かに追われる感じって持っていなかったのか…ということに驚く。
あまり長い本ではないので、悩める人が居たら是非読んでみてほしいと思う本だった。
ひねくれた思考を矯正するには、「私は優れている」と1万回声に出して言うのが良いそうなので、とりあえずマスクの中で
「私は優れている…私は優れている…わたしは…」
とブツブツつぶやきながらチャリを漕いだ1日でした。
休職して座禅修行に行ってきた②
今日、昼の情報番組でディズニーランドのトイ・ストーリーホテルの特集をやっていた。
ホテルの壁に描かれたとあるキャラクターをみて
「え!?ダイヤモンド☆ユカイさんが描かれてる!!さすが、主題歌歌ってるもんな~」
と感心してたら全然違った。
ギグル・マクディンプルズという登場キャラでした。
そらそうか。
前回の続きです。
■お寺までの道のり
宝泉寺は京都の馬堀駅という駅にある。京都駅からJR山陰本線で9駅、25分程度で着く駅である。
わたしは東京に住んでいるため、京都までバスで行くか新幹線で行くか悩んだ。修行でもたくさん座るのに、バスで8時間も座りっぱなしでは修行が終わる前に座りすぎで足がなくなっちゃうよ…と思い、体力重視で、ちょっと高いが新幹線を選択。
当日。少し早めに京都駅に着き、ランチをとる。
寺の食事では肉や魚が出ないと聞いたため、最後の晩餐とばかりにアジフライ定食をたべた。もっとご当地っぽいもの食べればよかったかな~と思ったが、お店で注文を取りに来てくれたおばちゃんがゴリゴリの京都弁だったため「いまわたし京都きてる!!!」ってなった。
京都駅からJR山陰本線に乗り、花園駅の次が馬堀だったと思う。
花園駅には花園大学があって、これが白隠禅師研究で有名な花園大学か~と思いながら通過した。宝泉寺にも白隠禅師の絵が飾ってあったり、朝課で白隠禅師の座禅和讃を読んだりしたので、なんやかやで白隠禅師に土地的にもかかわりがあるんだなと思った。
■宝泉寺に到着
馬堀駅の駅周辺は住宅街だが、奥に行くと山があり、宝泉寺は町と山の境目のようなところに位置していた。
てくてく歩く。
京都の街を歩いているとくるりの曲を聞きたくなるのはなんでだろう。
くるりの曲って、洋風にアレンジした曲でも、その根幹に日本語ロックの魂がずっとある。歌詞に使われる言葉も、どこか京都のはんなりした雰囲気と似たものを感じる。
食べ物や飲み物を持ち込んでの入山は不可のため、持っていたペットボトルの飲み物を消費しつつ、寺を目指す。
途中にはコンビニもあった。修行中に甘いものを求め、血走った目でアイスを食べに走る自分の姿がフッと脳内を横切る。
だんだん人工物が少なくなってきたぞ。
着いた!桜が残っている!!!!東京では終わってしまった桜が!!!!!!最高
(ただ緊張からかおなかがPPで終わっていたので着くなり速攻トイレ駆け込んだ)
荷物置き場に荷物を置き、修行に取り組むにあたっての様々な説明を受ける。
とにかく規律が多い。
特に食事や座禅など修行の場面については(食事も修行です)動画で説明いただいたが、とても覚えきれず、まあなんとかなるだろ!!と思ってメモも途中であきらめた。
施設の案内もしていただき、いったん自分の部屋へ。
わたしの部屋は本堂の仏さまの隣にある和室で、なんとなくお線香の香りが漂う、なつかしさすら感じる部屋だった。
ちなみにカギはないので知らない人にうっかり開けられないか心配していたが、2日もたつと「あけられても悪いことはされないでしょ」という気持ちになってしまうくらい、周りの修行者の方々がみんないい人。
続きます。
休職して座禅修行に行ってきた①
今日は冷蔵庫から発掘したナスでみそ炒めを作った。
先日温泉に行った長野でお土産で購入した生のコゴミもからし和えにしてみた。
コゴミって先っちょがくるんとなっててイモ虫っぽいのでイモ虫くっついててもわかんなくね?と思いながら洗って茹でた。
山菜って初めて調理したけど、やっぱり新鮮なのはうまい。
あと長野県産じゃなくて新潟県産だったことに調理しながら気付いた。
お土産の定義とは。
■修行までの経緯
きっかけは、友人からの一言だったように思う。
仕事が忙しくて、異動してからは内容にも面白味を感じなくなって、はたから見たわたしはいかにも辛そうだったんだろう。
「本当に今のままの生活でいいの?」
今までがむしゃらに頑張ってきて、一生この職場で働き続けたいと思っていたわたしの信念が、この一言で瓦解した。
いや、もはや自分で自分のこころの声を無視して無理やり「信念」に仕立て上げていたのかもしれない。
これが確か、昨年の11月くらい。
その後、転職も視野に入れて動こうと思っていたものの、一気に忙しくなり残業が増え、仕事をしながら涙が止まらなくなる日が続くようになった3月。
「これはもう休んじまおう。」
こういう次第で、かかりつけの病院に行き、症状を話して診断書をもらい、職場の上司に休職の申し出をしたのだった。
■なぜ座禅修行?
元々仏教思想が好きだったわたしは、マインドフルネス的な感じで、おうちで座禅を組んでいた。
もっとも、本当の座禅は目的無く座らないといけないのだけれど、わたしの場合は仕事で精神をやられないために、また、寝る前に座禅を組むとよく眠れてすっきり起きられるため、朝晩10~15分づつ、簡単なストレッチと合わせて座禅を組んでいた。
この試みは、なんだかんだ半年ほど続いた。
以前は仕事がつらいと休日も辛かったのだが、座禅を組むようになってから幸せな気分が続くようになって、毎日生きていて幸せだなあと思えるようになった(仕事中以外は)。
だから、朝晩の座禅が楽しみにすらなった。
しかし、座禅の指導については何年も前に駒澤大学で行われていた座禅会に参加したときに受けただけで、あとは本を読んだりして見よう見まねで取り組んでいたので、一度、ちゃんとした座禅をお寺でやってみたいなあと思っていたのだ。
■職場のトイレで修行予約をポチる
上司に休職の申し出をし、業務調整等も含めて休職が確定的になった日、スマホをもって職場のトイレにかけこみ、修行の申し込みをした。
事前にどこのお寺に行こうか、期間はどれくらいにしようかなどは考えていた。あとトイレが長いとおなか壊しているか泣いているかサボっているかのどれかだと思われるので、予約専用ページへのアクセスから予約までは事前のイメトレどおり、スマートに終わらせた。
とはいえ、座禅が出来て、一般人を何泊も泊めてくれるお寺は多くなく、自然と選択肢は限られる。
せっかくだから立地的な雰囲気も重視しようと、京都にある宝泉寺さんにお邪魔することにした。
また、お布施(いわば宿泊費)の価格の良心的であることや、比較的厳しめの修行を体験できそうだったことも魅力的であった。
修行期間は6泊7日。
予約のボタンをポチった瞬間、仕事ですさんでいたこころが、ワクワクする気持ちで少しうずいたのが分かった。
続きます。